【中古】 ガラスの遊園地 / 景山 民夫 / 講談社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】 価格:235円 |
そもそもテレビは「生放送」が基本でした。放送の黎明期ではドラマでさえ生で放送されていたのです。推理ドラマ「日真名氏飛び出す」(1955-1962/ラジオ東京テレビ:現在のTBS)も生放送でやっていた時期がありました。推理ドラマですから番組の終盤は探偵がなぞ解きをするのですが、放送終了時間が来て、肝心な謎解きのオシリが切れた!なんて事態になったりと、逸話には事欠かなかったといます。
生コンテンツで最も適しているのがスポーツコンテンツ。結末がわからないものを皆で見ながらドキドキハラハラ。今年2020年はオリンピックイヤー。大会が近づけば、どうしても編成上、生放送の割合が多くなります。
そんな今年、改めて「生(ナマ)」の意義とは何かを自問自答してみました。
それは「コミュニティにおける共有性・共感性に火をつける」ことではないかというのが私見です。釈迦に説法ですが「テレビジョンとはtelevision、ラテン語語源で、遠く(テーレ)を見る(ウィーシオー」こと」。(距離的や心理的に)遠くで起こっていることを視聴者はテレビというメディアを通して体感するもので、そのタイムラグが限りなく“0(ゼロ)”なものが「生放送・生中継」だと考えられるのです。
同じ指向性、マインドシェアが高い集まりであるファンが、自ら結び合い共感する集団を「コミュニティ」と捉えるならば、番組制作を行い視聴を獲得する編成の上で、彼らコミュニティとの接点を持ち、ソーシャルを通して繋がり、感じ、語りあるコミュニティへの共感性の「着火剤」が生放送・生中継番組でないかと考えています。
かつて、テレビが存在していた場所は「お茶の間」でした。そして現代、その共感の集団が「茶の間」から「コミュニティ」へ移行しているのではないか、と感じます。最近の視聴者は「テレビを見る」のではなく「テレビを遊ぶ」という感覚なのではないかとも感じます。
1968〜74年のテレビの舞台裏を描いた小説『ガラスの遊園地』(景山民夫著)。この本は、テレビの仕事を始めた1988年頃に先輩から勧められて読んだ本で、まだ本棚に後生大事にとってあります。(恥ずかしいくらいボロボロ・・・)
ページをめくってみましょう。あくまで小説なのですが、登場するエピソードは極めて現実的です。1972年2 月、関東テレビ芸能局フロアでの2人のディレクターの会話があります。「あさま山荘事件」の生中継を見ながらです。
「つまり、生放送、生中継がテレビの本質なんだから、それを忘れてると、昔誰かが言ったみたいに電気紙芝居になっちまうってことかね」。
「それに対する警鐘が、この生中継さ。雪の野っ原と山荘を動きもしないカメラが撮っているだけで三十パーセントの数字をあげるってのは、テレビそのものの在り方に対する警告みたいに思えてしょうがないんだ」。
この当時、テレビの本質とは何か、作り込まれた録画モノなのか、生なのかの本質的議論は常に現場で行われていたと思います。この本を手にした32年前の自分の周りでも、喧々諤々な議論がされていた記憶があります。
現代、テレビ放送は「4K」へ。映像を消費する手段も配信へ。さらにリニアライクな編成からVODへと、パラダイムは変わっています。テレビからは「テレビじゃないもの」もたくさん流れてきています。
そんな今だからこそ、テレビにおける「ナマ」の意義と視聴者から求められているものとは何かを、青臭く議論しても良いのかもしれないですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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